「毒」がなくてはつまらない  「蜜」がなくては諭しめない  「骨」がなくては意味がない

PCR検査を巡る攻防
見えざるウイルスの、見えざる戦い

第1話 ジレンマ

世界の危機だとは分かっていても、見えないウイルスとの闘いのなかで、ビジョンの見えない政治への不満もまた確かにあった。日本独自の対策とPCR検査に対する議論は、大きくなるばかりだった。

この騒ぎが教えてくれること

 いま日本では、子供から高齢者までPCRという三文字を覚えてしまった。
「PCR検査が進まないと安心が戻らない」との声が止まらない。
 二〇二〇年二月七日、東北大学の押谷仁教授のインタビュー記事は「無症状感染者は普通に外出しているので、ここから感染が広がってしまう」と警鐘を鳴らしている。だから多くの人は無症状感染者を放置できないと考える。
 その一方で「なぜ国民はムダなPCR検査の大合唱をするのか、わかっていない」と一部の専門家たちは各所で狼煙を上げ続けてきた。確率が低すぎる。偽陽性が出る。お金がかかる。意味がない。中国や韓国と、日本は違うと。
 五月に入ってもその声はおさまらなかった。「必要なのは検査ではなく自宅隔離と外出制限だ」とある臨床医は主張する。ウエブサイトで「国民全員ないしは流行地域では無症状者や軽症患者にも広くPCR検査を行うべきとする主張の趣旨」を整理して一つ一つ科学的に反証していくことに力を注いでいる。そこに悪気は感じられないが。
 さらに五月十二日には「『PCR検査せよ』と叫ぶ人に知って欲しい問題」という仙台医療センターの西村秀一氏の記事も出た(東洋経済新報社)。
 刺激を受けたSNSでは「PCRを進めれば陽性者が増えて困る」「PCRを要求しているのは左翼」「PCRが必要は非科学的」といったツイートもまたたくまに広まる。
 これらの騒ぎが教えてくれることは、国民全員ないしは流行地域では無症状者や軽症患者にも広くPCR検査を行うことについて、科学的な検証やフェアな場での論争が必要だということだ。このような論争には利害が絡むことも含めて、である。
 すでに日本政府も、ビジネスなどの海外渡航における「陰性証明書」の発行の検討を始めたらしい。
 六月二日、厚生労働省は、唾液を検体としたPCR検査を可能にする通知を出し、発熱などの症状発症から九日以内の有症状者に限って唾液によるPCR検査を承認、保険適用にするとした。
 そのようななか、耳にする中国でのPCR検査は凄まじい。まるでウイルスの「種」は一粒たりとも残さないという意気込みだ。
 中国の武漢で、五月十四日から六月一日までのわずか二週間余りで、人口約千百万人の住民のうち、九百八十万人超に対して検査を実施。陽性反応を示したのは約三百人で、いずれも無症状だったと記者会見で発表した。中国CDCの副所長は、「この数字からは、武漢が今や最も安全な都市であることが分かる」と述べた。(AFP 六月三日)
 その光景を、どこか腹立たしく、しかし妬ましく羨ましく、指をくわえて見ているのが私である。
 では、どこが腹立たしいのだろうか? 自問自答してみる。
 中国は、自国のこの疫病の流行を落ち着かせた四月十九日、南シナ海の西沙諸島と南沙諸島に行政区を設置すると言い出した。すなわち領有権の争いが続いている海域に、世界がパンデミックで混沌しているときに手を出してきた。さらに五月二十八日には、香港での反体制活動を禁じる「香港国家安全法」の制定方針も採択。評論家の石平氏の言葉をかりれば、まさしく「火事場泥棒」なのである。
 そんな非民主主義的国家が、武漢市に九百八十万人ものPCR検査をかけた結果を示し、これみよがしに「武漢が今や最も安全な都市だ」と宣言するのを聞くと、やはり腹立たしいわけだ。
 しかしPCR検査と、この腹立たしさは、分けて考えたほうがいい。
 私たちが、いま戦っているのは中国でもアメリカでもない。闘っているのは、COVID-19 新型コロナウイルスという得体のしれない疫病なのだ。
 では、どこが妬ましく、羨ましいのだろうか?
 安倍晋三首相は、五月二十五日に開いた記者会見で、緊急事態宣言をすべて解除すると正式に発表した。その会見で、「わずか一カ月半で今回の流行をほぼ収束させることができた。日本モデルは世界の模範だ」とアピールした。
 だがそれは事実に反していた。収束はしておらず、感染者も死者も毎日出ていた。
 そして「新しいやり方で日常の社会、経済活動を取り戻す」と言い、「世界の感染症対策をリードしなければならない」と強調し「目指すは、新たな日常をつくり上げること。ここから先は発想を変えていこう」とも言った。その一方で「二度目の緊急事態宣言発出の可能性もある」とも述べている。(傍点筆者)

 「新たな日常をつくり上げる」って何だ?

 そこで私は、はっとする。
「新しいやり方」「新たな日常をつくり上げる」って何だ、と。
「目指すは、新たな日常をつくり上げること。ここから先は発想を変えていこう」っていったい何のことだと。最大限の検査もせずに?
 私はふと、四月十一日に放送されたNHKスペシャル「新型コロナウイルス 瀬戸際の攻防」を思い出していた。ウエブサイト「論座」で、ある朝日新聞の記者が「日本でコロナによる死者が少ない理由を解明したNスペ」と高評価していた。本当に死者が少ない理由が解明されたのか。私はそのNスペを観ても死者が少ない理由はちっとも分からず、厚労省のプロパガンダにすぎないとの印象が強く残った密着ドキュメンタリーだった。NHK、これで大丈夫かと。
 この番組のなかでクラスター対策班リーダーを務める押谷仁氏は悲壮感あふれる顔でこうつぶやいた。
「僕らの大きなチャレンジは、いかにして社会経済活動を維持したまま、この流行を収束の方向に向かわせていくのかということなので、都市の封鎖、再開、また流行が起きて都市の封鎖っていうことを繰り返していくとですね、もう世界中がとにかく経済も社会も破綻します。人の心も確実に破綻します。若者はもう、未来に希望を持てなくなる。次々に若者が憧れていたような企業はつぶれます。倒産していきます。中高年の人たちは、安らぐ憩いの場が長期間にわたって失われます。その先に何があるのか。その先は、もう闇の中しかないわけです。その状態を作っちゃいけないんです」
 ショックだった。こんな未来観、悲壮感、ビジョンが。まさに日本の明日を予言しているような言葉に思えた。
 そういえば、元厚生官僚で大阪大学感染制御学の森井大一氏も、最近こう書いていた。
「大阪モデルに貫かれた基本的認識に気づかれていることだろう。それは、少なくとも今後数年間、もしかするとそのままずっと、我々の社会はこの新しい感染症と共存していかなければならないという認識である」
 押谷氏のいう「都市の封鎖、再開、また流行が起きて都市の封鎖」、森井氏のいう「今後数年間、もしかするとそのままずっと」。そして安倍首相のいう「目指すは、新たな日常をつくり上げること。ここから先は発想を変えていこう」との言葉が、微妙にリンクする。
 これから先、今のような生活を「もしかすると、そのままずっと」である。そんなビジョンに大阪府民は、いや日本は、生活を懸けられるのだろうか? 
 検査を進めた中国や韓国、そして欧米諸国と日本は違う。後述するように世界の専門家らは日本を危惧している。
 中国の場合は、無謀ともいえるほど強引にウイルスの「種」を一応すべて刈り取ってみせて「世界一安全」をアピールしている。
 対策を指導する鍾南山氏は、SARSの脅威を軽く見た衛生部や中国CDCに対して、科学的な見地から信念をもって指摘し説得したという。独裁政権に正面から挑んだとして英雄視されている。むろん額面どおりには信じていないが徹底検査、徹底隔離のビジョンにゆるぎがない。
 少なくともそこで国民は安心を得ることができる。また第二波、第三波が来たら徹底検査、徹底隔離する。そしてワクチンや薬が機能するようになれば、それこそ「ウイルスとの共存」という言葉も意味を持つ。インフルエンザ同様に日常の生活のなかでのリスク程度になるという。どこか「妬ましく、羨ましい」理由だ。
 安心のないなかでは経済は決して戻らない。検査の進まないなかでは、飲食業に満足に客足はなかなか戻らない。インバウンドも復活しない。一旦は解放気分になるだろう。しかし感染者が増えたら不安がまた全国に広がる。そして基準を超えたら、ゆるゆるの不公平な自粛やアラート。自粛に応じなければ感染者が増える。
 国際ジャーナリストの高橋浩祐氏は、四月三十日、日本のPCR検査数がOECD加盟国三十六カ国のうち三十五位(千人当たり一・八人)であることを「世界と比べても際立つ少なさ」と表現し「世界の主要国と比べ、日本がこれまでPCR検査態勢をきちんと整えてきていなかったツケが明白になってきている」と書いた。そして、OECDの報告書を紹介している。
「新型コロナウイルスの第二波の流行が発生するリスクを減らすため、感染者と接触したすべての人の七十~九十%を追跡し、検査で感染が確認されたら隔離する必要がある。これには大幅な検査の増加が必要になるだろう。新たなロックダウン(都市封鎖)がもたらす影響と比べれば、検査の大幅増加に伴う課題とコストの方がはるかに少ない」と述べている。
 もっとも、いま日本は急ピッチで検査数を増やしておりPCR検査センターも充実してきた。五月二十日時点で日本が実施した検査件数は、人口千人当たり三・四件と倍増はした。しかしそれでも「イタリアの五十二・五件、米国の三十九件に比べ、はるかに少ない。韓国では人口千人当たり十五件検査をしている」と五月二十九日のNewsweekは伝える。
 またロイターは「公衆衛生の当局者、医師、専門家など十人以上に取材。彼らの多くは、検査体制の拡充の遅れが日本の感染実態を覆い隠しており、再び感染が拡大した場合に国民が脆弱な立場に置かれかねないと懸念を示した」と伝えていた。

水際対策の失敗と楽観視を振り返ってみよう

 日本の厚労省には(欧米と同様にではあるが)、こういった疫病に対するPCR検査体制も医療体制も万全ではなく危機感も不足していた。
 日本感染症学会の理事長でさえ、二月十日のBuzzFeed Japanのインタビューでは、中国で六百人以上の死者が出ていることに対して、「中国では医療へのアクセスが日本のようによいとは思われない状況があり、重症になって初めて受診して、助かるものも助からなくなっている可能性がある」と述べ、「日本の患者さんをケアしている医師や看護師が感染していたら、感染力も病原性も高いとなりますが、それは今のところないわけです」などと言っていたほどである。
 BuzzFeed JapanはYahoo! Japanのジョイントベンチャーで、この日本感染症学会の理事長の見解は、すぐにYahoo!ニュースで全国に拡散された。このころから「若い人は大丈夫」という言葉が一人歩きするようになった。
 とりわけもっとも早く対策を行った台湾などをのぞき、この未知のウイルスに対して、世界各国に危機感が欠如していたので仕方ないと言われればそれまでである。
 しかしどこかで軌道修正して、PCR検査を進めることができたはずだ。
 まず水際対策の失敗から振り返ってみよう。
 日本の水際対策は、中国人観光客の入国を止められず、習近平国家主席の来日への配慮から判断が遅れたと指摘され、石破茂自由民主党元幹事長からも「入国をもっと早く止めるべきだった」と批判されていた。
 そして、このウイルスで最も厚労省が頭を抱えたのはダイヤモンド・プリンセス号だったろう。この船には、五十六カ国の乗客約二千六百人と約千人の乗務員が乗っていた。感染者が次々と見つかるが検査ができない。経験値もない。しかも二月十八日には、YouTubeで、岩田健太郎氏(神戸大学教授)による世界に向けての前代未聞の告発も出る。
 その上さらに困ったことが起きた。
 二月二十二日、厚労省の職員の多くを船内業務後に、ウイルス検査も受けさせずに職場に復帰させてしまっていた。このウイルスに関しては、すでに無症状の感染者がいることが分かっており「見えない感染」を厚労省自らが、わざわざ国内に広めてしまった可能性があった。厚労省は職員四十一人に対しウイルス検査を行うと発表したものの、医療関係者や検疫官らは十分に感染予防策を取っていたとして対象から除外した。さらには、同船の乗客二十三人を、定められた期間中にウイルス検査を実施しないまま下船させていた。船内業務をした厚労省や内閣官房の職員などの感染が次々と発表され二月二十四日には政府職員の感染者は六人に及んだ。ことは加藤厚労相の謝罪にまで発展した。
 そこで間髪置かず医療関係者向けに厚労省の援護射撃をしたのが、新聞にも専門家として登場する前出の元厚生官僚、大阪大学感染制御学の森井大一氏だった。森井氏が二月二十六日に書いた記事は、「日本の失敗」の記録として興味深い。
 まだ日本の国内感染者数が約百八十人、死者三人の段階でのことだ。
 森井氏は、「『どこで感染したかはっきりしない』いわゆる“疫学的リンクが追えない感染例”が各地で確認されるようになり国内感染期に入ったと考えられる。今後は、急激に国内の感染者が増えていくと考えられる」と書く。
 そして「水際対策の目的は、必ずしも海外で発生した新興感染症を国内に持ち込ませない」ことではないとする。
 つまり、すでに国内感染期に入っている。政府の水際対策のおかげで時間稼ぎができ、PCR検査や医療体制が整えられてよかったではないか、とも思われる趣旨だった。
 森井氏はこの記事で次のように書いていた。
「一月後半から二月初旬にかけて、全国の地方衛生研究所や大学等においてPCR検査が実施できる体制が整えられた。また、ほとんどの医療機関は、実際の患者を目にする前に、対策を講じる時間を得た。これらのことをもってしても、検疫を中心とした水際対策がそれなりに機能したと考えていいだろう」
 いや検査体制は整えられていないじゃないかと訴えるがごとく、その二日後に専門誌に反発するような記事も出た。
 それによると、まず、国立感染症研究所は一月下旬、自家調整の遺伝子検査を確立したという。それは大別して次の二つ。
 一つは、「2ステップRT-PCR法と電気泳動」、もう一つは「TaqManプローブを用いたリアルタイム1ステップRT-PCR法」。
 しかし前者の手法について複数の専門家は、「まるで研究者の実験のよう。手間も時間もかかり、臨床検査ではほぼ使われていない」と指摘。後者を使えば三時間程度で検査ができるが、専門家は「2ステップRT-PCR法をマニュアルに掲載するに当たり、大規模な検査の必要性を認識していたとは思えない」「もし感染研が、前者の手法で遺伝子検査を行っていたとしたら、さらに時間がかかっていることになる」などと書かれている。
 さらに、ある業界関係者の話として、「厚労省は恐らく『これまで通り、感染研が中心となって自家調整の遺伝子検査を実施すれば乗り切れるだろう』と高をくくっていたのではないか」との批判を紹介している。(日経バイオテク)
 この批判は特に気になるところだ。
 二月二十六日の記事で、国内感染期に入っていると考えた森井氏は、「感染そのものを防ぎきることはできないとしても、取るべき対策はある。ピークを可能な限り低く、そして後ろにずらすことだ」と導いている。
 そして「この感染症が終息する見込みは、神のみぞ知るとしか言いようがない」とした上で、二〇〇九年のH1N1インフルエンザの例を出し「この経験から類推すると感染が落ち着くまでには半年前後かかるかもしれない」と推測していた。
 その二日後の二月二十八日、ジャーナリストの長谷川幸洋氏は次のように書いた。(現代ビジネス)
「そもそも、厚労省は今回の新型肺炎を当初から甘く見ていた。感染拡大を防いで、国民の命と健康を守るどころか、せいぜい『新型感染病の調査と研究が進めばいい』くらいの意識だったのだ」
「感染研は、そもそも感染の拡大防止が目的ではない。調査研究・分析するための組織なので、病気を治す臨床活動とは直接、関係がないのに、感染研は調査のためにPCR検査を民間に任せず、自分自身と都道府県の配下にある地方衛生研究所に絞った」
「発熱などが起きて、感染を疑う人が最初に頼るのは、近くの診療所やクリニックだろう。そこで保健所と感染研を知って、全員が検査を受けられればいいが、実際には保健所段階でハネられる人が続出した。結果、患者たちは路頭に迷い、感染が広がったのではないか」
 ではその後、保健所の機能は強化され、万全の体制を築けているのだろうか。果たして疫学調査主体の方法で、大規模なクラスターが各地起きたときに重篤患者を救えるのだろうか。キャパは大丈夫か。情報公開は適切なのか。
 次は、マクロからミクロに視野を移して見てみよう。


木村浩一郎写真
リーダーズノート出版・代表・編集長・
木村 浩一郎


「第3話」では、どこに問題があるのか、なぜPCR検査が進まなかったのかを見てみよう。

お知らせ

「PCR検査を巡る攻防」は、「2、3話」の掲載期間が終了しました。
ご意見、ご感想をお寄せ頂き、有難うございました。

現在は「1話」のみを公開しています。
なお、この書籍は7月16日より全国書店および、インターネット書店にて発売しています。

Amazon→

※本書に掲載されている本文の初出は、次のとおりです。
それぞれインターネット上で発表したものを一部修正して掲載しています。

・第1話/「まるで子供のように、私は、PCR検査をおねだりする(第1話)」2020年6月5日
・第2話/「まるで子供のように、私は、PCR検査をおねだりする(第2話)」2020年年6月7日
・第3話/「まるで子供のように、私は、PCR検査をおねだりする(最終話)」2020年年6月19日

・リーダーズノートのウエブサイトを見る(ここ
・他のOPINION を見る(ここ

[書 評]

【2020/08/01】『PCR検査を巡る攻防-見えざるウイルスの見えざる戦い』に関係する記事『まったく足りないPCR検査 Go Toより医療支援に回せ』が、「月刊ベルダ」2020年8月号(No.304)に掲載されました。(ここ

【2020/07/31】『PCR検査を巡る攻防-見えざるウイルスの見えざる戦い』の書評が、「JCAST デイリーBOOKウォッチ」に掲載されました。(ここ
この書評は、LINEニュース/エキサイト/ライブドア/ニコニコニュース/ノアドット/スマートニュース/グノシー/NTTdocomoマイデイズにも配信されました。

【2020/07/30】『PCR検査を巡る攻防-見えざるウイルスの見えざる戦い』が2刷となりました。

【2020/07/24】『PCR検査を巡る攻防-見えざるウイルスの見えざる戦い』の書評がアクセスジャーナルに掲載されました。(ここ

【2020/07/17】『PCR検査を巡る攻防-見えざるウイルスの見えざる戦い』の発売が、「週刊金曜日」の編集長コラム・編集後記/「週刊金曜日」 メールニュース等に掲載されました。

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