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私には三度、死の体験がある……。
松下幸之助が仕事への情熱を、自らの"生"を肯定することで燃え上がらせたなら、仕事への覚悟を"死"から決意した男、それが三澤千代治だ。彼はいつも死から生還した際、手土産をもってくる。
昭和42年、後に"住宅革新のパイオニア"と称されるミサワホーム創設。三澤はそのとき29歳。明確なビジョンを携え、「住人が快適に暮らせる住まい方を提供する」というアイデアを武器に、それまで「箱だけつくれば良し」とする住宅業界の革新を次々に図っていく。33歳のときには、全国最年少の上場企業社長として騒がれ、一躍ミサワホームを業界大手へと押し上げた。
実は、ミサワホームを設立するきっかけとなったのは、卓越した理論でも、膨大な資金力でもない。学生時代のとき、彼は急性結核で倒れてしまう。死線をさまよう重症だった。〈洗面器いっぱいの血を吐き、体中の血が全部入れかわるくらい輸血〉し、一年半の療養生活を強いられた三澤。だが、あるとき、ぼんやり天井を眺めていると、「柱と梁を使わない住宅があってもいい」とふと気づいたのだ。建築科で学んでいた彼は、その後、木質パネル接着工法を考案。当時は「ありえない」発想だったこのアイデアから、すべては始まった。建築コストの大幅削減。人々の夢を叶える低価格住宅の実現。三澤が最初に死から得た手土産は、同社に莫大な利益をもたらした。
しかし、そんな三澤も危機感を感じていた。昭和48年にオイルショックが吹き荒れ、事業が低迷していたからだ。経常利益86パーセント減。「世は、量から質の時代に向かっている。いままでのアイデアではダメだ。しかし、どうすれば……」
ある日、飛行機のなかで、そんなことを考えていると、機が突然乱気流に巻き込まれた。沸きおこる悲鳴。墜落の恐怖。だが三澤、そこで、また思いつく。
ここで、私が死ねばいいのだ。
社長が変われば新機軸も打ち出せるし、 社員も心機一転頑張るだろう
帰社後、彼はすぐに全社員を召集し、
前の社長は死にました
と自分の死亡を宣言。過去と決別した新たな社長の姿に、全社員が感銘を受けたかどうか、はわからないが、その後、新鮮なやる気に溢れた同社の事業は、苦難を乗りこえ、再び円滑に動きだす。ただ、三澤は、〈なかには本当に社長がいれかわったと思う外部の人がいて、悪口をいう。大変勉強になった〉ともいっている。
このほか、昭和59年にも"時代の変化(今度は「質から味」へ)"を感じとった三澤は、二回目の死亡宣言「前の社長は(略)」を社員に通達し、士気を上げることに成功している。
見ようによっては、これら三澤の姿はやや滑稽にも映る。だが、その決心、その仕事への覚悟を、いちいち過度な重苦しさをもって部下に伝えるのではなく、そこはかとないユーモアをもって、逆にビジネスの厳しさを社員に染み込ませる、という逆説的な三澤の気概がいい。「死ぬ気でやってみろ!」ではなく、「行きづまったら死んでみるといい」。この落ち着き方は、彼が最初に死を意識した出来事とも、無縁ではないだろう。生きているにも関わらず
お葬式出そうかなんて考えている
といった彼だが、二回の死亡宣言といい、三澤にとって"死"を表明することは、常に自分を戒め、原点に立ち返らす強烈な行為なのだ。そして成功(または生)への意志をより固めていく。「死から覚悟を決め、ビジネスに生を見出す」この名言から浮かび上がるのは、そんな武士のような三澤の生きざまなのだ。
それだけに、彼は自分を殺してまでも妥協を許さなかった。 妥協抜きでガンコ。そんな、戦後の混乱期を生き抜いてきた男に、元三菱電機会長の高杉晋一がいるが、彼はいみじくも、こういっている。
人生は最後の一線において勝負するものだ。
どんな人でも運命を決めるような最後の一線が必ずある。
そのときはまずハラを決めて、断固たる決意で立ち向え。
至言である。
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